LOGIN予想通り、眠れなかった。
十年間、会いたいと思いつづけてきた人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。その光景が頭のなかで何度も繰り返し再生され、紡はベッドのなかで瞼を閉じることもできないまま朝を迎えた。
胸のポケットに押し込んだメモを、有馬がいつ広げるのか。広げたとして、なにを思うのか。捨てるのか。捨てるとしたら、玄関のごみ箱なのか。それとも、駅の改札脇なのか。考えはじめるとどこまでも枝分かれしていって、それを一本ずつたどるうちに窓の外が白みはじめていた。
身支度を整えても頭はぼうっとして、体が重い。食欲もなく、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。
電車のなかでは、吊り革に寄りかかるようにして揺られていた。立っているだけで体が斜めにかしぐ。隣の乗客にちらりと見られて、紡は慌てて姿勢を直した。
会社に着いても、ゆっくりしている暇はなかった。新規ブランドの立ち上げが目前で、社内全体がじわじわと忙しくなりはじめている。寝不足だろうが疲れていようが、仕事は待ってくれない。
紡はブラックコーヒーをマグカップで三杯、立て続けに胃へ流しこんだ。空腹の胃にコーヒーがしみて、奥のほうがキリッと痛む。それでも頭はずんと重いままだった。
こめかみを人差し指の第二関節で押しながら、営業資料に目を落とす。文字は確かに並んでいる。読めない。視線が上に滑って、また同じ行に戻る。
――忙しいんだから、しっかりしろよ。
自分に言い聞かせても瞼は勝手に落ちてくる。
だめだ。今日は、進む気がしない。
紡はマグカップを手に給湯室へ向かった。四杯目のコーヒーを淹れに行きながら、紡は十年ぶりに肩で感じた重さを、まだ自分が覚えていると気づいてしまった。
ようやく昼休みになり、社員食堂へ向かった。
午前中は、会社員になってからいちばん長く感じた時間だった。集中できないと、時間というのはこんなにも進まないものなのかと、初めて知った。
日替わりランチをトレイに乗せ、空いているテーブルに腰を下ろす。アジフライにひじきの煮物、味噌汁、ご飯。揚げたてのアジに箸を入れると、衣がさくっと音を立てた。口に運ぶと、ふっくらとした身が舌の上でほどけていく。
「うまっ」
小さく呟いたそのとき、スマホが震えた。
茶碗をトレイに戻し、画面に目を落とす。知らない番号からのショートメッセージだった。
「ん? 誰だろ」
画面を開いた瞬間、紡の指先が止まった。
『昨夜はご迷惑をおかけしました。有馬』
手のひらにじわりと汗がにじんだ。
本当に、有馬だった。
昨夜まで知る術のなかった連絡先が、いま、画面のなかにある。たった一行の事務的な文面。それなのに、紡の心臓は変なリズムで打ちはじめた。
ご迷惑をおかけしました、というその一文を、紡は何度も読み直した。「ご」がついている。敬語だった。十年前の有馬の口調ではなかった。当然のはずなのに、その当然が紡には妙に応えた。十年というのは、こういうかたちで人と人のあいだに敬語を挟むのか、と思った。
なにを返せばいいのだろう。
いや、そもそも、これは「もう連絡しないでほしい」という意味の挨拶なのか、それとも、ただの礼儀なのか。判別がつかないまま、紡は箸を止めて画面を見つめていた。
向かいの席にトレイが置かれた。顔を上げると、同期の
「紡、お前、顔色悪いな」
「そう……かな」
「真っ青だぞ」
紡は手のひらで頬をさすった。
「ちょっと、寝不足で」
「なんで」
短く返してくる。急かす感じではないのに、目だけはまっすぐこちらを見ている。同期のなかで紡の話の聞き方がいちばんうまいのが水瀬だった。
紡は少し迷ってから、目を伏せて口を開いた。
「高校の友達と、十年ぶりに、再会した」
水瀬は片眉の端をわずかに上げた。
「ふうん。友達、ね」
意味ありげな笑みを口の端だけで作って、味噌汁をすすった。それ以上は訊いてこない。水瀬はいつもそうだ。察したぶんだけ、踏み込まずに置いておく。
この男にだけは、隠しごとがあまりうまく通らない。だからといって、水瀬が無理に引きずり出してくることもなかった。引きずり出さずに、ただ知っているふりをしているだけ、というのが、いちばん近かった。
紡はなにも説明しなかった。説明しはじめたら、自分のなかでまだ言葉になっていないものを、無理やり言葉にすることになる。それは、まだ、こわかった。
味噌汁を口に運んだ。味はもう、わからなかった。
午後からは外回りに出た。
電車に乗ると幸い座れて、紡はシートに沈み込んだ。スマホを取り出し、有馬とのメッセージ画面を開いた。
返事はしたほうがいい。
そう思うのに、指が動かない。
『久しぶり』と打ち込んで、消した。昨夜会ったばかりで「久しぶり」もない。
『覚えててくれてよかった』とも打ってみた。これも違う。覚えていてほしいから、こちらから連絡先を渡したのだ。
『今度、ちゃんと』とそこまで打って、頭を振った。ちゃんと、なに。話そう、と続ける勇気はなかった。話そうと送ったところで、有馬が会いたいと思わなければそれで終わる。
書いては消し、書いては消しを繰り返した。電車が二駅、進んでいた。
結局、送信したのは当たり障りのない一文だった。
『大丈夫、気にしないで。また機会があれば』
送信ボタンを押した瞬間に、後悔した。
もっと温度のある言葉が書けたはずだ。もっと言いたかったことや訊きたかったことが、たしかにあった。
でも、書いてしまったら止まらなくなる気がした。止まらなくなった先で、有馬が引いていく顔を、自分がいちばんこわがっていた。
外回りを終えて会社へ戻る途中、スマホがふたたび震えた。
急いで画面を開く。返信はたった五文字だけだった。
『ありがとう』
紡はしばらく画面を見つめていた。
たった、五文字。
礼の言葉として過不足なく、これ以上の余地を残さない、つるりとした言葉だった。返信のための返信。会話の幕を、相手に失礼にならないかたちで、静かに下ろすための言葉。
返事を書こうかと、頭のなかで何度も組み立てた。
「仕事、終わったのか」
「いま、どんな仕事してるんだ」
「今度、飲みに行かないか」
訊きたいことはそれこそ十年分あった。
けれど結局、紡はなにも書かずに画面を閉じた。
ありがとうで終わらせる、という有馬の意図のようなものを、メッセージから受け取った気がした。受け取ったというより、受け取ってしまった、というほうが近かった。
こちらから送らなければ、ここで止まる。
わかっていながら、紡は何度もトーク画面を開いては閉じた。開くたびに『ありがとう』の五文字は同じ位置にあり、紡をその場に置き去りにする。閉じる。深呼吸する。それでも五分もしないうちに、また指がトーク画面を開いてしまう。
有馬と再会してから五日が経った。
有馬からのメッセージはなかった。紡からも、送らなかった。
会えなかった十年と、なにも変わらない日々がまた流れていく。
――あの日会えたのは、偶然だったんだ。
残業を終えて駅のホームに立つたびに、紡の目はベンチに向かった。そこに有馬が座っているはずなどないのに、毎晩、確認するように見てしまう。見たあとで、自分の癖の意味を考えないようにした。
あれは偶然だった、と何度も自分に言い聞かせてきた。そうしなければ、胸のなかで膨らんだ風船がいつ割れてもおかしくないところまで来ていた。
仕事にも集中できなくなっていた。何度もスマホの画面を開いては、有馬の「ありがとう」で止まったままのトーク画面を見る。それから閉じる。それから、また開く。
家に帰ってもぼんやりしている時間が増えた。ベッドに横になっても、すぐには瞼を閉じなかった。眠れないのではない。体は疲れているし、眠たい。それでも、もし寝ているあいだに有馬からメッセージが来たら、と考えてしまう。来ないとわかっているのに、考えてしまう。
来ない通知を待つことを、紡は十年ぶりに思い出していた。十年前、有馬の番号が使われていないというアナウンスに変わったあとも、しばらくのあいだ、紡はこうして眠れない夜を過ごしていた。当時とまったく同じかたちで、いま、また自分が同じ天井を見上げている。違うのは、スマホの画面に「ありがとう」だけが残されていることだった。それが救いなのか、それとも、もっと残酷なことなのか、紡には判別がつかなかった。
翌週の火曜日。
新規事業の社内会議の朝、紡が会議資料をまとめていると、営業企画部長がデスクの脇に立った。
「白瀬」
顔を上げる。
「新ブランドの件、お前をメインに付ける。詳しくは来週の会議で」
驚きで、声がすぐには出てこなかった。入社五年目。新人ではないが、ベテランでもない。それでも、これまで地道に積み上げてきた実績がようやく形のある仕事になって返ってきた。そう思った。
「……ありがとうございます」
「頼んだぞ」
部長はそれだけ言って自席へ戻っていった。
紡は資料を整える手に、自然と力が入った。
社をあげての新ブランド。半年は家より会議室にいることになるかもしれない。それでもいい。仕事に没頭していれば、有馬のことを考える時間は減る。減ってくれるはずだった。減ってくれないなら、せめて、減らそうと努力することはできる。
腰を据えて取り組める仕事が、ようやく自分の足元に置かれた。トーク画面を何度も開いては閉じる夜は、たぶん、しばらく続く。それでも、明日からはあの「ありがとう」を見る回数が、少しは減るかもしれない。
翌週の火曜日、紡は洗面所の鏡の前に立っていた。普段より三十分早くマンションを出るつもりだった。 いつもと変わらない朝のはずだった。なのに、髪をセットする手にいつもより力が入る。前髪の流し方を二度直して、ようやく落ち着いた。 ネクタイを締め直すと、結び目がいつもより一センチほど上に、きれいに収まった。たったそれだけのことで、なにかいいことが起きそうな気がしてくる。気がしてくる、ということ自体が、自分でも不思議だった。 今日は新ブランドの社内説明会議がある。ターゲット、展開商品、関わる人員。すべてが今日明らかになる。新ブランドの立ち上げにかかわれる社員は、社内でも一握りしかいない。そこに自分が選ばれたことは、紡にとって、入社五年目で初めてはっきりと手応えのある出来事だった。 雲の上を歩いているような気持ちが、出社しても抜けなかった。エレベーターで自分のフロアに着いたとき、社員証をかざすカードリーダーの音が、今日はすこし高く聞こえた。いつもと同じはずなのに。 ふと立ち止まり、紡は両手で軽く頬を叩いた。 メイン担当になるということは、自分が中心で動くということだ。浮ついている場合じゃない。気合いを入れ直して、自席へ向かった。 自席に着いて、会議資料を確認する。 文字を追うだけで胸が高鳴る自分に、紡はすこし笑ってしまいそうになった。こんなふうに仕事に高揚しているのは、入社してから初めてかもしれない。 時計を見ると、会議の十分前だった。すこし早いかもしれない。それでも紡はノートパソコンを小脇に抱え、会議室へ向かった。普段は冷たく落ちてくる蛍光灯の光が、今日はどこか温度を持って見えた。 会議室は指定席だった。ネームプレートが机ごとに置かれている。紡は深呼吸して、自分の名前のプレートが置かれた席に座った。 まだ誰も来ていない。プレートをひとつずつ確認していく。 ライフスタイル事業部の相沢本部長が上座。おそらくこのブランドの総責任者になるのだろう。次に紡の所属する営業企画部の部長、関連部署の課長がふたり。隣の席は営業部の黒木の名前だった。 会議
自宅のマンションに帰り着くなり、朔也は玄関でへたり込んだ。 やばい。 十年間ずっと会いたいと思い続けてきた相手と、よりによってこんなかたちで再会した。スーツに皺がついたまま、玄関のたたきにうずくまっている自分を、どこか他人ごとのように朔也は感じていた。 うれしすぎて、高校時代の自分にすぐ戻りそうになる。けれど、自分から距離をとっておきながら今さら「久しぶり」とは言えなかった。十年前、自分の側で線を引いたのだ。引いた線を、今になって自分から踏み越える権利は、たぶん、もう、ない。 駅のホームのベンチで酔いつぶれていたら、声をかけられた。懐かしい声だと気づいたときには、目はもう半分ほど開いていた。焦点が合った瞬間、紡の顔がそこにあった。幻覚を見ているのかと思った。徐々に輪郭が鮮明になっていって、本物の紡だと確信した瞬間、朔也の酔いは音を立てて飛んだ。 それでも、朔也は酔いつぶれたふりを続けた。 しらふで対応したら、自分がどんな顔をしてしまうか、わからなかった。十年もずっと片想いを引きずっている、なんて、痛すぎる。痛さを紡に見せたくなかった。 あふれそうになるものを抑えるためにシャワーを浴びた。湯を頭から被っても、熱は引かなかった。無理やりベッドに横になり、目を閉じた。覚めたつもりでもアルコールは残っていたのか、意識はあっという間に遠のいた。 翌朝、目を覚ました瞬間、知らない天井がそこにあった。 いや、自分の部屋の天井だ。それなのに、なぜ「知らない」と感じたのか、すぐにはわからなかった。 鼻の奥に、かすかな柑橘の香りが残っている気がした。誰かの肩にもたれかかった感触。耳のすぐそばにあった他人の息遣い。 あれは、やっぱり夢だったのだろうか。 好きでたまらなかった相手だった。 あまりにも近くにいすぎた。だから、いつ気持ちがあふれだしてもおかしくなかった。あふれだした瞬間に、あの関係は終わる。確信に近い予感だけが、十年前の朔也のなかで先に育っていた。壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。それが朔也のたどり着
予想通り、眠れなかった。 十年間、会いたいと思いつづけてきた人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。その光景が頭のなかで何度も繰り返し再生され、紡はベッドのなかで瞼を閉じることもできないまま朝を迎えた。 胸のポケットに押し込んだメモを、有馬がいつ広げるのか。広げたとして、なにを思うのか。捨てるのか。捨てるとしたら、玄関のごみ箱なのか。それとも、駅の改札脇なのか。考えはじめるとどこまでも枝分かれしていって、それを一本ずつたどるうちに窓の外が白みはじめていた。 身支度を整えても頭はぼうっとして、体が重い。食欲もなく、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。 電車のなかでは、吊り革に寄りかかるようにして揺られていた。立っているだけで体が斜めにかしぐ。隣の乗客にちらりと見られて、紡は慌てて姿勢を直した。 会社に着いても、ゆっくりしている暇はなかった。新規ブランドの立ち上げが目前で、社内全体がじわじわと忙しくなりはじめている。寝不足だろうが疲れていようが、仕事は待ってくれない。 紡はブラックコーヒーをマグカップで三杯、立て続けに胃へ流しこんだ。空腹の胃にコーヒーがしみて、奥のほうがキリッと痛む。それでも頭はずんと重いままだった。 こめかみを人差し指の第二関節で押しながら、営業資料に目を落とす。文字は確かに並んでいる。読めない。視線が上に滑って、また同じ行に戻る。 ――忙しいんだから、しっかりしろよ。 自分に言い聞かせても瞼は勝手に落ちてくる。 だめだ。今日は、進む気がしない。 紡はマグカップを手に給湯室へ向かった。四杯目のコーヒーを淹れに行きながら、紡は十年ぶりに肩で感じた重さを、まだ自分が覚えていると気づいてしまった。 ようやく昼休みになり、社員食堂へ向かった。 午前中は、会社員になってからいちばん長く感じた時間だった。集中できないと、時間というのはこんなにも進まないものなのかと、初めて知った。 日替わりランチをトレイに乗せ、空いているテーブルに腰を下ろす。アジフライにひじきの煮物、味噌汁、ご飯。揚げたてのアジに箸を入れると、衣がさくっと音を立てた。口に運ぶと、ふっくらとした身が舌の上でほどけていく。「うまっ」 小さく呟いたそのとき、スマホが震えた。 茶碗をトレイに戻し、画面に目を落とす。知らない番号からのショートメッセージだった。
終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。 紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。 駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。「お客さん、大丈夫ですか」 近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」 駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。「有馬、立てる?」 返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。 有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。 息が止まった。「……お前、相当、酔ってるな」 返事はなかった。 紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。 肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。「家、どこ?」 肩を支え直しながら、訊いた。「……えき、の……」 呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。「タクシーで送るから、しっかりしろよ」 返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。 なんで、こんなになるまで飲むんだ。 心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと
水曜日の夜、二十三時四十分。 白瀬紡は駅のホームの端で、電光掲示板を見上げていた。終電まで、あと三本残っている。残業明けの目の奥が、じんと重い。十月の上旬の夜気は、思っていたより冷たくて、スーツの隙間からするりと滑り込んでくる。コートにはまだ少し早い季節だった。「……今日は終電じゃないだけ、ましか」 吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。 ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。 乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。 ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。 ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。 考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめ